橋本八重三の「植木屋の裏おもて」

2020年6月1日

 大阪府庁の公園アーカイブに、橋本八重三著の「植木屋の裏おもて」があり、貸して頂き八重三の存在を知った。八重三が卒業した大阪農学校は大阪府立園芸高等学校の前身である。大阪府立園芸高等学校は私の母校でもあり、八重三は大先輩に当たる。卒業年は95年程離れており知る由もなかったが、その人生はわが国の近代造園の先駆けであり、皆様方に紹介したい。

 橋本八重三は大阪北摂の細川村で生まれている。今日の、植木どころの大阪府池田市だ。大阪農学校に進み大正3年、大阪府庁の初級職に採用された。当時は大屋霊城氏が在籍され、八重三は随分影響を受けたが、造園事業に活路を見出し、わずか5年で退職、23歳の時、大阪で造園会社を立ち上げたのである(写真-1)。

 当時は植木屋さんと呼ばれていた職業を造園会社として設立し、社名を橋本造園工務所とした。注目すべきは社名に「工務所」を用いたことだ。これは手作業が多い造園を、工業技術を駆使し、近代的に取り組む会社をイメージしたからと推察する(写真-2)。

写真-1 充実期の橋本八重三


写真-2 西洋庭園も手掛ける(高師の濱の石川邸)

 現在、大阪の造園会社で社名に「工務所」がつく会社を探せば、昭和40年創業の『(株)稲治造園工務所』が知られる。池田市の隣の箕面市にある。創業者の稲治清氏も大阪府立園芸高校のご出身で、八重三の存在をご存知であったのではないだろうか。ゆえに社名に「工務所」を取り入れられたと推察する。

 八重三の仕事ぶりはというと、請け負った現場を監督するために、馬で回ったと書にある。しかもシルクハットに「礼服の出で立ち」と書けば大袈裟かもしれないが、普及し始めた自動車の間隙を縫って現場に駆け付ける姿はまるで鞍馬天狗か白馬童子のようだ。今ならフェラーリで走り回るようなものだ。そんな造園家は今日でもいない。しかも八重三は庭工事ばかりではなく、公園や遊園地を手掛け、大阪の枚方市にあるテーマパーク「ヒラパー」の前身である枚方パーク(枚方遊園地)を設計している(図-1・2)。その平面図、鳥観図が「植木屋の裏おもて」に編集され、これが意外と上手だ。つまり八重三は、ランドスケープアーキテクトの腕も持ち合わせていたのである。

図-1 京阪電鉄依頼の遊園地の計画


図-2 枚方遊園地の改造設計

 ここで考えることは、なぜ八重三がそのような「出で立ち」で行動をしたのか。それは施主から高い報酬を得るためではなかったか、と推察する。

 いくら技術を持とうとも、みすぼらしい「出で立ち」では、財界人などの施主は高い金を払う気にならないと、八重三は読んだのである。そういえば、ル・コルビジェの弟子、建築家坂倉準三もスーツ姿にソフト帽を被り、財界倶楽部で交流した。塩野義製薬の社屋、工場などに多くの作品を見ることが裏付ける。ここは、私たちも見習わなければならない。八重三は高卒ながら行動力、博識ぶりが他者の追随を許さず、きっと人が寝て居る時に努力したのであろう。

 大阪府立園芸高校が輩出した造園家として荒木芳邦(1921~1997)が知られる。大阪リーガロイヤルホテルの庭、箕面勝尾寺の庭園、大阪花博政府苑の日本庭園などを設計した。先生の石組は惚れ惚れする。

 もう一人は私の師匠である井上芳治(1941~2016)だ。ジャパンフローラ2000淡路花博や国際花と緑の博覧会の会場計画をまとめた。また、伊丹空港離陸後、眼下に見える日本列島をかたどる小島を配した池、すなわち伊丹市立昆陽池公園を設計された。日本列島をかたどった島は野鳥の楽園として設計されたものである。

 二人の共通点は大阪府立園芸高校卒業後、東京農業大学で学んだことだけではない。二人はいつもビシッとスーツで決め、荒木先生はこよなく外車を愛された。井上もまた、若き頃、三菱の高級車デボネアを乗り回していた。こう見ると、八重三とどこか似ている。両人には八重三の血が流れていたのであろう。

 今、私が知りたいのは橋本造園工務所のその後で、現在も何らかの形で続いているのだろうか。住所は当時のチラシに大阪市住吉区田邊町鶴ヶ丘とある。ご存知の方はご一報願いたい。

写真-1・2、並びに図-1・2は「植木屋の裏おもて」より

中橋文夫

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