レクリエーションと公園―日本人の遊び感を考える

2020年12月28日

レクリエーションと公園―日本人の遊び感を考える

みなさんは公園で遊んでいますか?
「公園で遊ぶ」ことは、普通の感覚からすれば当たり前に受け入れられることだと思います。「遊び」とは好きなことをして楽しい時間を過ごすことでいわゆる「娯楽」ですが、娯楽は精神と肉体のリフレッシュにもつながるため、公園はレクリエーションの場でもあります。では、遊びは「悪」で、公園は不要不急でしょうか。

海外では、International Federation of Parks and Recreation Administration(IFPRA)を前身とするWorld Urban Parks(WUP)や、National Recreation and Park Association(NRPA)などの組織があり、ニューヨークやシンガポールといった「公園レクリエーション局」をもつ行政もあるなど、公園とレクリエーションはセットで認識されています。ところが日本のレクリエーションは生涯スポーツ部署に位置づけられ、スポーツの大きな枠組みのなかに取り込まれています。「遊び」、「娯楽」、「レクリエーション」、「スポーツ」と言葉をつないでいき、「スポーツ」から「遊び」へ戻ろうとすると、何か大きな隔たりを感じてしまいます。

さて、明治時代に日本で初めて計画的に公園をつくろうとしたとき、日本人は室内の娯楽ばかり楽しんできて極めて不健全、だから外で健全に遊べる場が必要という考え方がありました(※1)。それは健康的な身体を育むという面もありましたが、健全な精神を育てるためという意味合いもありました。

日本人はなぜ外で遊ばなかったのでしょうか。近代までの日本人の大半は生業として農耕を営み、日が昇り、日が沈むまで雨が降らない限り農耕に勤しんできました。ただしその働き方は一年という長いサイクルのため、朝から晩まで働きづめというものではなく、働いては休んでまた働くという、今で言えば公私が混同した一日の働き方でした(※2)。
「農業は雑草との戦い」と言われるように、長く休むこともできませんが、急いでもまた草が生えるだけできりがありません。しかし「上の農人は草のいまだ目に見えざるに中うちし芸(くさぎ)り、中の農人は見えて後芸る也、みえて後も芸らざるを下の農人とす、是土地の咎人なり」(※3)というように、作業をさぼって雑草をはびこらせてしまうようではいけませんし、それが咎められる相互監視の重圧がありました。
一方で、狩猟社会は働くときは集中して働き、休むときは体力回復のため休むというもので、言い換えれば一日のなかでもまとまった休みがある労働スタイルでした(※4)。

余暇のあり方は娯楽のあり方を規定します。ヨーロッパの人々がバカンスを楽しめるのも生業のしくみやそれを支える制しやすい自然環境の違い(※5)があるのかもしれません。
現代社会は日本でも余暇が増えましたが、日本人は娯楽に後ろめたいところがあるのではないでしょうか。ましてや、遊ぶことを行政が公認し、遊ぶ場所を公共が提供することなどできない。公共が用意できるのは何かしら高尚な目的がある場所だ、そんな深層心理?がレクリエーションは生涯スポーツだという面に表れているような気がします。

ところが日本人も本当は農耕の合間に花見もしたし、野駆けもしたし、野点もしたし、祭もしていました。農耕と関わっていたから遊びも口実になったのです。こうした農耕という生活サイクルから切り離されてしまえば、余暇の楽しみ方がわからないし、それができる場所が公園だということに気づかないでいるのです。
公園は何か目的があって行くところになっているのではないでしょうか。目的がない人は、用がないから公園に近づきません。新型コロナウィルスへの公園の対策として、ニューヨークのコロナパークで6フィートのサークルを描き、人々はそのサークルのなかでくつろぐということが紹介されました(※6)。面白い試みですが、はたして日本ではどうでしょうか。ただ公園の芝生でぼーっと座るために人が殺到することはないので、あまり意味がないかもしれません。

日本では大型複合遊具を中心に、遊具が感染症対策として閉鎖されました。この遊具の閉鎖が子どもの人権侵害とまで言う主張がみられます(※7)。そうでしょうか。公園はあんなにも広いのに遊具でしか遊べないのでしょうか。遊具はおもちゃと一緒で、遊びかたを知らない子どもたちは与えられたものでしか遊べないのです。それは子どもたちが悪いのではなく、先に遊んでいた年代が遊び方を伝えられないことや遊びが後ろめたいことという社会の雰囲気を変えなければ変わらないように思います。

公園は大人も子どもも、誰でも遊んでいい場所であり公共が遊ぶ場所を提供してもいいのです。遊びへの後ろめたさ、公園は遊ぶところではなく防災や生物多様性のための場所という心理が公園を閉鎖に追いやります。
遊ぶことによる生活と心身の充実を得られる公園は、都市民にとって「健全な生活のために不要不急」ではないのです。
公園を閉めることと病院を閉めることは、都市の機能を損なうこととして同じではないでしょうか。病気は感染症だけではありません。身体を動かさないことによって陥る不健康もあるのです。オープンエアーな公園で遊び、今の心身の健康を自分のちからで維持しましょう。健康は誰から与えられるものでもありませんから。

一般社団法人公園からの健康づくりネット
事務局長  浦﨑 真一

補注
※1 公園の誕生(2003),小野良平,吉川弘文館
※2 利己的な勤勉性(2019),古野庸一,「働く」ことについてのこれまでとこれから,リクルートマネジメントソリューションズ
※3 農業全書巻一(1697),宮崎安貞
※4 人体六〇〇万年史(2017),ダニエル・E・リーバーマン,早川書房
※5 風土―人間学的考察(1935),和辻哲郎,岩波書店
※6 「密を避けて集う!ニューヨークの公園が導入した画期的なアイデア」
※7 「遊具のテープは誰が巻いた? コロナで見逃していた身近な人権問題 子どもだって言いたいことがあったはず」

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