わが国最初の冒険遊び場「羽根木プレーパーク」のこと

2021年8月2日

 東京都世田谷区代田に梅林で有名な世田谷区立羽根木公園があります。

 遡ること42年前の1979年、国際児童年のこの年に世田谷区は記念事業として、地元の方々の協力を得て羽根木公園の一角に、わが国で初めての冒険遊び場「羽根木プレーパーク」を開設しました。発端は、子供の「遊びの環境」に関心を持ち、欧州の冒険遊び場に着目した地元の方々の活動にありました。

 当時、世田谷区経堂において、大村ご夫妻を中心とした遊び場を自分たちの手で造ろうとする住民たちが集まり「経堂こども天国」を開設しました。その後、その場所が使えなくなったため、代わりとして「桜丘冒険遊び場」を作り運営しました。この住民ボランティアの手だけで実践された実績と熱意が世田谷区を動かし、羽根木公園のプレーパーク誕生につながりました。住民の活動に理解を示した世田谷区の職員の力も大きいと思いますが、わが国で冒険遊び場が定着した画期的な公園の誕生でした。

 私は1981年6月に羽根木プレーパークを訪れました。そのころ、勉強会として参加していた「造園家集団(ULA)」の当時の関心事が「子供の遊び場」でしたから、どうしても自分の目で見てみたいと思ったのです。

 樹木が大きく育った公園内の一角に冒険遊び場はありました。高い木からぶら下がったターザンロープやブランコ、自由に使える工作台にはたくさんの木材の切れ端、自ら燃やせるたき火、様々に手を加えられた小屋、自由に遊べる森。そこには、森の中での冒険や無人島での生活など子供の頃に夢見たままの光景がありました。

 私は運よく、プレーリーダーの天野さんのお話を伺うことができました。彼のお話の中で今でも印象に残っているのは、「特殊学校の児童で、最初来た時は暗い顔をして、自分からは何もできなかった。しかし、ここで仲間にもまれていくうちに、一緒に遊んだり道具を使って何かを作れるようになった」とか、「大人でありながら人間社会にうまく適合できないタイプの人が、ここへきて子供と遊んでいるうちに他人と協調できるようになった」などです。

 また「プレーパークをたくさん作ることよりも、公園、さらには社会がこのようになることが望ましい。木に登っても叱られず、好きなことが出来る。そこでは子供や住民による一定のルールと秩序が生み出され守られていく。このような公園が出来れば良いと思う」とおっしゃっていたのも忘れられません。

 関西でもこのような冒険遊び場を、という動きがあり、この後、冒険遊び場づくりの中心だった大村璋子さんにも来ていただいてフォーラムを開催したこともありました。

 今、子供の環境はもちろん、社会全体が、当時に比べても制約と制限によって窮屈な環境になってきていると感じます。COVID-19によるパンデミックのせいだけでなく、人はオープンスペースを必要としています。その代表格である都市公園は利用者の制限がなく、存在が担保された場所です。

 子供の健全な成長、情操教育、住民の憩いと健康維持など、人間の生活全般における質的向上に役立つ空間としての都市公園を目指すために、先駆的な公園の前例を顧みることは重要だと思います。ITやAIの進歩により、人も社会も急速に大きく変わっていく時代です。

 人間が生命あるものとして獲得し、生きながらえてきた基本行動、「歩く」、「走る」、「手と足を使って道具を作り使いこなす」、「声と眼差しでコミュニケーションを図る」、「火を操って食料と暖を得る」というような「生活行動」を子供から遠ざけてはいけないと思うからこそ、40年以上の活動実績を持つ羽根木プレーパークについて、改めて注目したいと思っています。

(1981年当時の写真は、ここに掲載した以外にも、「懐かしの公園写真館」にて公開しています)

大槻憲章(公園マネジメント研究所 技術顧問)

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